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2006_02/28

手児の呼坂

手児の呼坂.JPG 2月26日(日)静岡新聞日曜版 (1)面に掲載されました。


万葉を歩く

東路(あずまぢ)の
手児(てご)の呼坂(よびざか)
越えて去(い)なば
吾(あれ)は恋ひむな
後(のち)は逢ひぬとも

碑文は「あずまぢのてこのよびおさかこえていなばあれはこひむなのちはあひぬとも」
あなたは東路にある手児の呼坂を越えて、東国へ行ってしまう。また、いつの日か会うことができるとおっしゃるが、恋しくてならない。もしかしたら、再びお目に掛かることはできないかもしれない。旅すること自体が命懸けであり、一度離れてしまえば、再び会うことができるなど信じられない。そんな時代だっただけに、切ない思いが伝わる。
「東路の手児の呼坂越えがねて山に寝むも宿りはなしに」(東歌、未勘国歌)と歌われた名高い「手児の呼坂」はどこにあったのだろうか。
未勘国歌は駿河や遠江など、どこの国の歌か不明なものを指す。
手児の呼坂の諸説があり、はっきりと定まっていない。
安倍川を越えて国道1号線をしばらく行き、丸子の金属工業団地へ右折する。そのまま突き当たりまで進んでいくと、歌碑がぽつんと建っている。
農道を歩き、手児の呼坂へ向かう標識にあたる。
ほんのひと登りで「手児の呼坂」碑と案内板を見つけた。
林の中の峠は薄暗く、静寂に包まれている。
そのまま尾根筋を登っていくと、頂上辺りで大きく眺望が開けた。
富士山が目の前にあり、安倍川が目の前にあり、安倍川の向こうに当時、阿部の市(駿河の国府)と呼ばれたにぎやかな街並みが広がる。
ああ。ここが手児の呼坂なのだろう。
富士のふもと辺りを指さし、万葉の旅人になっていた。
(文・小林一哉 写真・塚原勝二)

この石碑は1993年4月に現在会長の村田保が建てた石碑です。

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