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2026.05.01

「海賊」と呼ばれた男の遺産:出光丸のホルムズ海峡通過

一昨日から、日本人として、感動的なニュースが報道されています。

出光興産系の原油タンカー「出光丸(IDEMITSU MARU)」が、緊迫するホルムズ海峡を無事に通過したという知らせ。

なぜ、これほどの緊張下で円滑な通過が可能だったのか。

その背景には、今から73年前の歴史的な出来事「日章丸事件」が深く関わっていると。

駐日イラン大使館は公式SNS(X)にて、この事件を引き合いに出し「この遺産は今なお大きな意義を有している」と投稿しました。

「日章丸事件とは!

1951年、イラン政府は石油の国有化を宣言!

これに猛反発したのが、当時イラン石油を独占的に支配していたイギリス。

海軍力を動員して海上を封鎖し、イランの石油輸出を完全に阻止しようとした。

そんな中、1953年に西側諸国の反対を押し切り、秘密裏にタンカーを派遣したのが「海賊」と呼ばれた男「出光佐三」が社長を務める出光興産でした。

これが「日章丸事件」

日章丸は英国の厳重な監視網を突破し、イラン産石油の運搬に見事成功。

戦後復興のために安価なエネルギーを切望していた日本と、石油の販路を必要としていたイラン。

両者の利害が一致して成し遂げられたこの快挙は、イランの人々の心に「日本は窮地を救ってくれた友だ」という記憶を刻みました。

一部には、「日本とイランの『特殊な関係』を強調することで、米国を中心とした包囲網に揺さぶりをかけ、日米の間に亀裂を生じさせようとする外交的な意図も透けて見える」と解説する人もいます。

・・・が、どのような背景があろうとも、70年以上前に先人が築いた「覚悟」と「誠実さ」という名の遺産が、現代を生きる私たちのエネルギー供給、そして航路の安全を守るひとつの鍵となっている事実に変わりはありません。

ビジネス、そして国と国との信頼関係は、一朝一夕に築けるものではありません。

困難な局面においてこそ真価を発揮する「信頼の蓄積」の大切さを、改めて深く教えられたニュースでした。

私たちも、次の世代に誇れるような誠実な仕事を積み上げていきたいものです。

写真:「二重丸(◎)の赤い三角印が出光丸の現在地」。

現在、オマーン湾を速度26.5km(14.3ノット)で航行中。5月18日に名古屋に到着予定(マリン・トラフィックより)

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2026.04.30

父が生前残した言葉!

亡くなった父が、生前よく口にしていた言葉があります。

「製造業が身の丈以上の事務所を作ると、その年がピークになる」

若い頃の私は、「そんなことはないだろう」と思っていました。

立派な事務所は会社の成長の証であり、社員の誇りにもなる。

むしろ良いことではないかと。

しかし、年齢を重ね、さまざまな会社の栄枯盛衰を見てきた今、この言葉の重みを実感しています。

まず、事務所を新築するタイミングは、多くの場合「業績が良いとき」

受注が増え、利益が出て、「この先もいける」と感じるからこそ大きな投資に踏み切る。

しかし、景気や受注環境は必ず変化するもの。

完成した頃がちょうどピークで、その後は徐々に下降線に入る・・・、そんなケースを何度も見てきました。

さらに、立派な建物は固定費が増加する。

減価償却費や維持費、固定資産税など、売上に関係なく毎年発生するコスト。

好調時には気にならなかった負担が、環境が変わった瞬間に重くのしかかる。

そして見逃せないのが「心理」の変化。

立派な事務所が完成すると、どこか満たされた気持ちになるもの。

「ここまで来た」という達成感が、知らず知らずのうちに危機感を薄れさせる。

攻める姿勢よりも守る姿勢に傾き、挑戦や改善のスピードが鈍ってしまうこともあるのではないでしょうか。

製造業の本質は、建物の立派さではなく、人と技術にあることは間違いありません。

社員一人ひとりの成長、協力会社との信頼関係、お客様への価値提供。

その積み重ねこそが、会社の持続的な発展を支えるもの。

父の言葉は、決して「事務所を建てるな」という意味ではなく、「外側に目を奪われるな」という戒めだったのだと思います。

どんな時も、身の丈を見失わず、中身を磨き続けること。

それが、長く続く会社の条件なのだと、今は素直に受け止めています。

画像:生成Ai画像

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2026.04.29

東海道新幹線で経験した「緊張のひととき!」

1990年から2000年頃、私は新規開拓専門の営業として全国を回っていました。

昨日の記事でも触れましたが、東海道新幹線を使っての早朝移動が多かったので、出発は自由席、帰路は東海道ツアーズの割安チケット「ぷらっとこだま」を活用して指定席に乗っていました。

(自由席よりも割安に加えて、飲料水付き)

時にはポケットマネーで500円を足して、2階建て車両のグリーン車に乗るのが密かな楽しみでした。

当時の東海道新幹線グリーン車(100系)は2階建て。

乗車するたびに私一人の「貸し切り状態」になることが多く、ゆったりと流れる景色を独り占めしていました。

しかし、その静寂を破る、今でも鮮明に覚えている「事件」が起きたのです。

東京駅から乗車し、貸し切り気分で寛いでいた私。

ところが新横浜駅で、数人の男性グループが乗り込んできました。

そのうちの二人が、なんと通路を挟んで私の真横に、向かい合わせで座ったのです。

しばらくすると、隣からつやのある、しかし凄みのある声でこんな会話が聞こえてきました。

「おやじが・・・」「総長が・・・」

「えっ! もしかして、裏社会の方々・・・!?」

生きた心地がしません。

心臓の鼓動が早くなるのを感じました。

そこへ追い打ちをかけるように、検札に来た車掌さんに対し、一人が「ウルセイ!」と一喝。

車内に凍り付くような緊張感が走りました。

熱海駅に到着する前に、どこからともなく子分らしき方々がスッと近寄ってきて、彼らと一緒に降りていきました。

姿が見えなくなった瞬間、本心から「ホッ・・・!」と大きなため息をついたのを覚えています。

あの時の緊張感は、まるで昨日のことのように今でも鮮明に残っています。

2階建て車両の思い出とともに、一生忘れることはないでしょう(笑)

画像:東海道新幹線 2階建て車両

 

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2026.04.28

「最近はいつ乗っても混雑している東海道新幹線!」

30年前、新規開拓の仕事で全国を飛び回っていました。

その頃、移動手段といえば東海道新幹線。

早朝の出発時なので自由席を使っていましたが、帰りは疲れていることもあって、自由席よりも安い金額で指定席に乗ることが多かったです。

「ん?、どういうこと・・・・?」

当時は東海道ツアーズの「プラットこだま」をよく利用していました。

「プラットこだま」は、割り増し料金を支払って指定席を乗るのではなく、ワンドリンク付きで、自由席料金も安い金額で乗車できるシステムなんです。

そして、「プラットこだま」だと、自由席料金に+500円出すとグリーン車に乗ることができたので、自分のお小遣いで支払って乗車していました。

当時グリーン車は2階建て新幹線だったので、2階席で「一人しかいない」という貸し切り状態で乗車することも何回もあったんです。

2001年からはエクスプレス予約(EX予約)を使うようになり、自由席料金で指定席に乗っていましたが、当時は自由席が満席でも、指定席はガラガラということもよくありました。

それから25年。

今やEX予約は多くのビジネスパーソンにとって必須のツールとなり、「こだま号」は自由席より指定席のほうが高稼働という現象が起きています。

いつ乗っても混雑している、というのが今の状況です。

そこで、50年前からの乗車数推移を調べてみました。

AIで分析したところ、この50年で年間輸送人数は、なんと7,000万人も増えているんですね。

年代 推定年間輸送人員 時代の背景
50年前(1976年頃) 約 1.0 億人 国鉄時代、安定成長期
40年前(1986年頃) 約 1.3 億人 民営化直前、利用者が徐々に増加
30年前(1996年頃) 約 1.5 億人 JR化後、ビジネス・観光需要が定着
20年前(2006年頃) 約 1.6 億人 輸送効率の向上、利便性の拡大
10年前(2016年頃) 約 1.7 億人 インバウンド需要の増加期

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2026.04.27

「水は買うもの」はいつから日本の常識になったのか?

普段、何気なく飲んでいるミネラルウォーター。

私が高校生だった50年前は、水といえば水道水が当たり前の時代。

「外国では、お金を出して水を買う」ということが信じられませんでした。

では、「日本ではいつから、水は買うものになったのでしょうか?」

気になって調べてみたところ、日本ミネラルウォーター協会の資料にその歴史が詳しく掲載されていました。

資料によると、ミネラルウォーターの消費が急増した大きなきっかけは、1993年(平成5年)の日本経済新聞の記事だったそうです。

そこには「エビアンのミニボトルを革製ホルダーに入れて持ち歩く若者のファッション」が紹介されており、これを境に500mlペットボトルの消費が一気に増えたといいます。

今から30年以上前、流行に伴って「水を買う」ことを当たり前に受け入れ始められたのですね・・・。

日本のミネラルウォーターの歩み

1868年:横浜・神戸の居住地の外人用として販売開始
1929年: メジャーホテル用に「富士ミネラルウォーター」販売開始
1967年:  ウィスキー水割り用(業務用)販売開始(第1次・水の時代)
1972年:  日本ミネラルウォーター協会設立
1982年:  家庭用ミネラルウォーター登場(第2次・水の時代/PETボトル登場)
1983年: 「六甲のおいしい水」の瓶詰・販売開始
1989年: 「山崎の天然水」「南アルプスの天然水」販売開始
1993年: エビアンのミニボトルファッションが流行し、PETボトル消費が増加
2001年: 国内生産数量 100KL突破
2008年: 200KL
2015年:  300KL
2019年:  369KL
2025年:  486万KL

写真:Ai画像(村田光生似の人物・笑)

 

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2026.04.26

「武士は、なぜ改名していったのでしょうか?」

靖国神社にそびえ立つ、大村益次郎の銅像。

この像は、靖国神社の前身である「東京招魂社」の創建に尽力した功績を讃えて設置されているそうです。

大村益次郎の「旧姓は『村田』、幼名は『宗太郎』」。

私と同じ名字だということに、勝手ながら親近感を覚えています。

「昔の武士はなぜ頻繁に名前を変えたのでしょうか?」

疑問に思い、調べてみました。

大きな理由は「元服」にあります。大人になる通過儀礼として幼名を捨て、成人としての名を授かる。

また、出世に伴い主君から名前の一文字を授かる「偏諱(へんき)」という文化もあった。

これは単なる改名ではなく、 主君への忠誠を誓い、組織における重責を背負うという「決意の表れ」。

役職が変われば、見るべき世界が変わる。

武士にとって名前の変化は、まさに「成長と責任の証」だった。

「なるほどねぇ~!」

現代の私たちも名前こそ変わりませんが、日々の成長とともに、心の持ちようや視座を常にアップデートしていきたいものです。

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2026.04.25

健康は「当たり前」ではなかったと気づく年齢になりました。

若い頃は、健康が当たり前だと疑ったこともありませんでした。

人間ドックで数字が悪くても、「まだ大丈夫」「そのうちなんとかなる」と楽観視して、生活を変えることもなく過ごしてきたし、貰った薬を飲んだことがありません。

しかし、気がつけば60歳代。

ふとした瞬間に体が重く感じたり、あちらこちらに痛みが出始めたり・・・。

自分の体が少しずつ変化していることを、ひしひしと感じる年齢になりました。

今では、「健康は、自然なものではなく、日々のちょっとした努力で維持していくものなのだ」と。

若い頃は何も考えなくても動いてくれた体も、今はメンテナンスが必要。

小さな努力の積み重ねが、これからの自分を支えてくれるのだと感じています。

日々体を大切にしている人と、そうでない人。

その違いは、長い目で見るときっと健康でいられる時間に大きく影響するのは間違いありません。

皆さんは、何か意識している習慣や、続けていることはありますか?

写真:1ケ月で25万歩達成 「完歩賞」

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