歴史|社長ブログ「溶射屋」|溶射の村田ボーリング技研株式会社

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歴史

2019_03/27

西郷隆盛と山岡鉄舟の会見の地

昨日静岡市ペガサート(静岡駅から徒歩10分)で本年度最終の会社説明会を開催。

実はこの地域は歴史を変えた場所でもあるんです。

明治維新の際に江戸で西郷隆盛と勝海舟の話し合いによって無血開城したことは誰でも知っていることですが、

話し合いの前に勝海舟の命を帯びた山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した場所が、ここ静岡市だと言うことはあまり知られていません。

静岡市指定文化財(史跡)「西郷・山岡会見の地」
慶応4年(1868年)2月12日、慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追討軍が江戸に到着した。
官軍の江戸総攻撃は目前に迫り、一部では慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。そんな重苦しい空気のなかで、勝らは大きな賭けに出た。
勝は山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡市に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士の居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」とさけびつつ、早馬を走らせた。
東海道を疾走する山岡の早馬の図は有名な錦絵となっている。
山岡は西郷の宿舎だった伝馬町の松崎屋源丘衛方を訪ね、3月9日、西郷・山岡の会見が実現した。
両者は一面識もなかったが、互いに胸襟を開いて折衝した。
その結果を、西郷から駿府城代屋敷を御座所としして静岡に滞在していた熾仁親王に伺いを立てると、宮から七ヶ条の内輪書を得た。
最終的には14日、江戸での西郷と勝の会見で決着するのだが、実質的な交渉は静岡会見で行われ、江戸の会見はセレモニーにすぎない。
歴史の転換期で静岡は重要な舞台となっていたのです(文責・・黒澤 脩)

写真の赤色が会見の地で黄色が会社説明会を開催した静岡ペガサート

静岡市指定文化財(史跡)「西郷・山岡会見の地」

2018_10/20

東京都千代田区「紀尾井町」の由来!

先日、都内にあるホテルニューオオタニで政府系銀行主催の全国総会に出席したのですが、

四ツ谷駅からホテルに向かう途中の「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑に興味深いことが書かれてありました。

要約すると、尾張徳川家屋敷(現上智大学)の隣に井伊直弼家屋敷(現ホテルニューオオタニ)が、その隣に紀伊徳川家屋敷(元グランドプリンスホテル赤坂)があり、明治5年にそれぞれの頭文字をとって紀尾井町となったと。

「なるほどねぇ・・・!」

尾張名古屋藩徳川家屋敷跡
この一帯は、江戸時代には尾張名古屋藩徳川家の麹町低がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
尾張徳川家は、徳川家康に始まる家で、紀州家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。
義直は、慶長8年(1603)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
明示5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」になりました。

千代田区環境協会HPより

2018_08/21

西郷どん!

西郷どんを毎週楽しみにみています。

今までNHK大河ドラマにこんなにはまったのは初めてのことです。

歴史上の人物で知らない人はいないし、誰からも愛される人柄。

ドラマの中で訳の分からない横文字言葉を叫んでいるシーンが出てきます。

8月19日に放映された第31話「龍馬との約束」、最後のシーンで西郷どんが「チェストォォ!」と叫んでいました。

ネットで調べると薩摩の方言で、掛け声の一種で「強くいくぞ~」と自分を鼓舞する時に使う叫び声。

戦が始まる前に自陣で「チェストォォ!」と気合を入れる。

「それ、ゆけ」という心の底からの叫び声だと。

なるほどねぇ~!

我々も気合をいれて日々過ごして行こうじゃぁじゃぁありませんか!

「チェストォォ!」

西郷どん

2018_08/08

「能」と「歌舞伎」

 
能と歌舞伎は名前は知っていますが、その歴史は全く気にしたことがありませんでした。
 
HPなどで調べると、能は今から1300年くらい前に、中国から日本に伝えられ、織田信長(1534-1582)豊臣秀吉(1536-1598)、徳川家康(1542-1616)といった歴代の権力者のお抱えとなり、武家の教養として発展したということなので、位の高い人しか観ることができなかったのかもしれません。
 
歌舞伎は1603年の項だといわれ庶民が楽しむものだった。
 
能のほうが圧倒的に長い歴史があるようです。
 
東京2020 開会式・閉会式 4式典総合プランニングチームのメンバーに選出されたのが、なぜ歌舞伎役者ではなく能楽師が(野村萬斎さん)選ばれたのか納得した次第です。

写真は今朝の静岡市内の朝焼け!
今朝の静岡市内の朝焼け

2018_03/19

亀之助は由緒ある名前だった・・・・!

NHKドラマ西郷どんが面白い!

13代将軍、徳川家定の後継者を誰にするのか・・・?

ちなみに最後の将軍、15代将軍である慶喜は将軍職を解かれた後に我が静岡市に28年間も住んでいたこともあって、徳川宗家を継いだのは誰かと調べたら養子にした家達という方でした。(1863~1940年)

この家達の幼名は「亀之助」で静岡藩の初代藩主にもなっているんです。

弊社の創業者であり、私の祖父の名前が「亀之助」(1900年生まれ)なので、私の曽祖父が家達の幼名を祖父の名前に付けたのではないかということが分かりました。

なんか我が家の歴史の一部が解き明かされたような気がして、とっても嬉しいです。(笑)

村田亀之助

2017_04/09

世界に誇れる元号「皇紀]

昨日の投稿で西暦はキリスト誕生が元年、和暦は飛鳥時代の孝徳天皇が西暦645年に制定した「大化」がその始まりという記事を投稿しましたが、

日本には世界に誇れる「皇紀」があります。
皇紀とは神武天皇が即位した紀元前660年が元年とされ、西暦2017年では皇紀2677となります。

カレンダーによっては西暦と和暦である、平成と昭和が併記されていますが、その中にぜひとも皇紀も入れてもらいたいものです。

写真は、天皇の祖先が祀られている伊勢神宮にて参拝(平成25年)

伊勢神宮参拝

両親 当時86歳、母84歳 (撮影・平成25年)

2016_12/05

駿府の大御所徳川家康

歴史にうとい私ですが、たまたま手にした大和田哲男著「駿府の大御所  徳川家康」を読んで、「へ〜、そうだったんだ」と思ったことの一つ。

戦国時代において、天下統一へと導いた戦国武将、戦国大名と言えば、誰でも知っている「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」です。

実はこの3人の出身地は愛知県だったということが新鮮な事実でした。

織田信長・・・愛知県名古屋市中区

豊臣秀吉・・・愛知県名古屋市中村区

徳川家康・・・愛知県岡崎市

特に徳川家康は愛知県三河地区から関東に至るまでの、今で言うところの東海道ベルト地帯が地盤だったんですねぇ!

「そんなことは小学校で教えてもらった常識のことだよ!」と言われそうですが、僕としては新鮮な発見でした。

大和田哲男著「駿府の大御所徳川家康」

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