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2025_01/21

江戸時代の「蕎麦」キッチンカー

時代劇などで見かける江戸時代の移動そば屋。

どのようなシステムになっているのか気になっていたので、調べてみました。

冷たいそばなのかなと思っていましたが、主に暖かいそばだったらしいです。

それにしても、装備を充実すればするほど重量が増えたことは間違いないので、移動する際は相当な重労働だったんでしょうね。

・・・・・・・・・・
江戸でのそばの普及には、店を構えたそば屋だけでなく、夜そば売りが大きく貢献していた。

夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになったのは、市中にそば屋が目立って増え始める18世紀半ば以降よりも、少なくとも20年ほど遡る。

夜そば売りが重宝されたのは、ほかの飲食店が閉まっている夜中に営業していた。(夜9時から明け方まで)

一定の場所に店を構えるのではなく、一人で担ぐ「担い屋台」で自由に場所を移動した。

江戸時代には、大八車のように車輪のついた屋台はまだなかった。

屋根には市松模様が描かれることが多く、風鈴が吊るされ、音で蕎麦売りの存在を知らせる役割を果たしていた。

調理設備として、茹で釜と七輪が備え付けられ、その場で蕎麦を茹でて提供できる簡易調理システムが
整っていた。

担い屋台の構造と機能(一例)

右側の箱(キッチンセット)
上段:調味料(麺つゆ、唐辛子など)や燗酒用の道具。
中段:茹で釜。
下段:七輪と水桶。

左側の箱(ストッカー)
上段:蕎麦猪口やどんぶり
中段:蕎麦やうどん玉を収納する棚
下部:箸入れやその他の道具

担い屋台そば

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コメント(5)

  • 2025年1月21日07:49

    おはようございます。
    昭和の時代は軽自動車の夜泣き蕎麦屋が多かったですが、コンビニができて消えました。のつくあ

  • 小肥りさん
    2025年1月21日15:35

    リヤカーのような二輪車があれば5倍ぐらい楽ですね。
    何故無かったんでしょう。肩で担ぐ・・・ってのはつらいだろう。
    子供の頃、夜鳴きラーメンの移動屋台を見たことがあるなあ。
    チャルメラ鳴らして・・・ドレミ~レド、ドレミレドレ~
    博多の屋台は昼間はどこか目立たないところに収納してて
    夜になると組み立てて決まった場所まで転がしてくる。

  • 2025年1月21日15:51

    考えたら、湯を沸かすコンロ・そばを湯がく鍋・茶碗・水・出汁。
    数十キロはあったとおもいます。
    昔の人の方がタフだったかも。

  • 2025年1月21日17:58

    こんにちは。
    落語「時そば」の舞台は、こんな感じなのですね。
    想像していたのとは、少し違いますが勉強になります。
    ありがとうございました。

  • 2025年1月22日02:58

    おはようございます。
    江戸時代にこんなものがあったんですね。
    肩にかけて移動するのかな??
    写真を見ると、そんな姿を感じています。