徳川家康公が晩年(1607年〜1616年)を駿府(現在の静岡市)で過ごしたことは、一般的に知られていると思います。
この地にとって単なる「隠居地」以上の大きな意味を持ち、都市としての骨格と文化の基礎を築く決定的な要因となったということは、静岡市で生まれ育った人たちは、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
私が住む市ということもあり調べてみました。
家康公が駿府で展開した「大御所政治」により、駿河は次のような形で発展した。
1、「駿府城」を中心とした巨大な城下町の整備
家康公は、駿府城を当時の最新技術を駆使して大改修すると共に、以下の大規模な都市計画が実行された。
駿府城を中心に、整然とした碁盤の目の街路が整備された結果、現代の静岡市の中心街にも、当時の町割りの名残が色濃く残った。
駿府の最大の弱点であった安倍川の氾濫を防ぐため、大規模な堤防工事(家康堤)が行われたことで、氾濫原であった場所が安心して住める市街地となり、経済活動の安定に直結した。
2、全国から職人と文化の流入
「大御所」となった家康公のもとには、全国から腕利きの職人、商人、文化人が集結した。
駿府城の改修や城下町の建設のために、日本全国から優秀な工匠(建築家、石工、大工など)が呼び寄せられた。
彼らが定住したことで、静岡の地には高度なモノづくりの基盤(現在の静岡が誇る木工、漆器、模型、ひな人形などのルーツ)が形成された。
また、茶の湯や能、学問などの上質な文化が持ち込まれ、駿府は江戸に次ぐ「東の都」のような華やぎを見せた。
3、経済と流通の要所としての発展
駿府は東海道の重要な拠点として、参勤交代や物流の要衝としてさらに発展した。
江戸(将軍・徳川秀忠)と駿府(大御所・徳川家康)の「二元政治」が行われたため、全国各地からの情報、献上品、富が駿府に集まり、極めて経済力の高い都市となった。
4、「静岡」らしさの形成
家康公が亡くなった後、駿府は徳川家代々の尊崇を受け、家康公を祀る「久能山東照宮」をはじめとする神聖な場所として守られた。
この「家康公と縁の深い街」という誇りが、明治時代以降の静岡の発展や、現代の歴史観光の核となることに繋がった。
「なるほどねぇ!」
先人が残してくれたこの豊かな文化と技の伝統。
歴史ある地で仕事ができる喜びを噛み締めながら、私たちも次世代へ何かを繋いでいけるよう、今日という一日を大切に積み重ねていきたいと思います。
写真:静岡駅北口にある徳川家康像



コメント(1)
おはようございます。
徳川家康と静岡の発展について。
情報を有難う御座います。
たくさんの「なるほど」があります。